昨日の取り組みで “栃ノ心” が初黒星を喫し、優勝争いが混沌としてきた “大相撲五月場所”
 やはり “栃ノ心” が? と言うか
 やはり “栃ノ心” に! と拙僧は・・・。
 “大相撲五月場所” の優勝争いは別として、“第二次貴の乱?”、“女人禁制問題” と、何かと話題には事欠かない大相撲だが、その “相撲” に関するトリビアを今日の記事に。

 「土俵は丸ではなく四角だった」 ってご存知でしたか?
 長い相撲の歴史の中で、土俵が登場したのは戦国時代末期から江戸時代初期にかけてだと言われていて、その頃の土俵は四本の柱に紐を掛けた(張った?)ものだったそうである。
 現代のボクシングリングのようなイメージで良いのでは?

 更に神前相撲などの儀式では、八角形の土俵を使うこともあったそうだが・・・、
 若しかしたら “八角理事長” の “八角” は、ここから採ったものなのかも?
土俵
【 当地でも “ちびっこ相撲” は盛んで、強い女子が沢山いてとても頑張っています。】

 やがてリング?のロープ?は廃止され、“土を詰めた俵” を丸く置くように。
 そしてその後、俵は細く改良され、更に時代を経て俵の半分以上を土中に埋めるように成ったのだそうである。
 また、相撲は江戸中期頃からは “神事” という要素以外に “興行” の性格が強く成ったことから、観客が観やすいように一段高く土を盛って、その上に土俵を造るようになったとか。

 これは “相撲ド素人” である拙僧の自論ではあるが、土俵が四角だったのは日本神道の考え方から来ているもので、現代の地鎮祭に於ける神域(竹を四隅の角に立て、熨斗としめ縄を張る “結界” )と同様の神域を現したものだったと拙僧は思っている。

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【 地鎮祭 竹を四隅の角に立てた神域で 】

 その精神(神域)を相撲櫓に託し、四角い土俵を丸に変えたことは、当時としては “大改革” だったに違いない。
 これら相撲様式の変遷は、力士の安全、観客の観易さ、と言ったことを優先してのことだったと拙僧は思っている。

  “神事” と “興行” との間で諸説諸論が入り乱れ、
 日本相撲協会に
向けて投じられているが・・・、
 協会は先人たちが四角い土俵を丸い土俵に変えたような “大改革” で、
 相撲を
未来に繋げて欲しい。
 
もちろんその際のキーワードは、
 先人たちが示してくれた
力士視線、観客視線でぜひ。m(__)m
キャプチャ
【 きょう(14日目)の上位陣の取り組み 】

 ところで、今場所の優勝の行方は?  
 やはり “栃ノ心” が?  

  やはり “栃ノ心” に! m(__)m